あゆみ

人形鏡
 
ヒダオサム

 せんじつめていえば、人形には二つの見方がある。一つはキャラクター(性格・役割・約束)としての人形であり、もう一つは鏡としての人形である。
 鏡としての人形とは、わかりにくい表現かもしれないが、人形を見つめればみつめるほど、逆に強い視線を人形から感じる事があって、かといって、この視線はその人形の目から発せられいるわけではない。人形はただそこにあるだけなので、こんなとき、こいつは鏡だとおもうのだ。道ばたにうちすてられた人形の首をみて、ぞっとする事がある。こんなとき人形は絶対にキャラクターではない。我々の視線をすいこみ、逆に強い宇宙線をこちらに照りつける人形鏡なのだ。
 このような鏡は人形ばかりでなく、我々のまわりに、いくらでもあって、それに気がつきはじめると、もう世界は遊園地のミラーハウスのごとくなってしまい、我々は帰る道を見失ってしまう。
だが実はそんな時ほど我々の目は本来の力で物を見ているのであって、太古の昔には、人はすべての物をそのようにしか見なかったのだと、私は信じている。
 そのころ世界は巨大な一枚鏡であり、ただそれだけだったのではないだろうか。
 いま我々は遠い昔にわれてしまったその鏡の破片をひろっては合わせ鏡にして、遠い昔の巨大な鏡にうつっていた風景(PARADISE)を想い出そうとするのだ。(1974年初演パンフレットより)


パラダイスー3をむかえて 
ゆきのゆみこ

 また人形の季節がやって来ました。毎回目のまわるような忙しさの中での公演ですが、5年まえに初舞台でヒダマリオネットが誕生して以来、大海に忽然と白い帆を張って船出した小さな船のごとく、内や外からの大波小波にもまれもまれて、一度はぐるりと渦に巻き込まれて、沈没寸前、というところまでいきましたが、なんとか無事にそれも乗り越えることができ、このパラダイスシリーズも今回でようやく完結編ともよべるような内容に仕上がった事は、大変嬉しい事です。
 私事で恐縮ですが、鉄のマリオネットを夢みていた朱雀人形座が、ついに旗揚げ公演できずに空中分解したと同時に私達の結婚生活は始まりました。果たせなかった夢を果たすべく、まるで別れていった仲間達の魂がのりうつったかのように、彼の鉄のマリオネットへの情熱は激しいものでした。一体の鉄の人形を作るのには大変な労力と技術が必要とされます。各部分をそれぞれの大きさの一枚の平らな鉄板を鍛きあげていって形をつくるのです。
 深夜、狭い鍛金場からふいごをゴーゴー踏み鳴らし、鉄板に向かって打ちおろす金槌のガンガンガンと規則的に響いてくる音を、子供と枕を並べて横になりながら複雑な思いでいつまでも聞いていたものです。なにか事があると「人間と人形とどっちが大事なの」と衝突することもしばしばありました。そのようにして形にした部品を磨くのです。磨いて磨いて磨きあげると、ニブイ鉄色が銀色の光を放って目まいがする程に輝き出し、不思議な存在感をもって見る者に迫ってくるのです。その根気たるや大変なものです。

 今回もう一つ嬉しいのは、いままでは金属の人形ばかりだったのですが、別な素材での妖精が誕生したということです。鉄や金属で、というこだわりを捨てて違う素材の人形も取り入れて行こうという姿勢の現れです。第一回、二回は、はたして「パラダイス」だったろうか、と首をかしげたくなるような不安感がつきまといました。それが一つの凄みでも、力でもあったと思うのですが。今回はようやく「楽園」の入り口までたどりついたと思うのですが、いかがでしょうか・・・。
 人形達は生も死も時間も超えた舞台空間の中で歩き出します。一足一足確かめるように、ぎごちなく、不安げに、やがて軽やかに、力強く、そして突然みずから糸をたちきって踊りだします。くるくると陽気に回転しながら空にまいあがり、そのまま真空な宇宙に旅立って帰らない。
(1979 「PARADISE-3」パンフより)




パラダイスー3によせて        


村田康平 (画家) 肥田収の創るマリオネットは、太古の楽園の最初の男であると同時に、終末の滅亡の時に最後に輝き出る男でもある。歴史の時間の夜明けと夕暮れにいるようなものだ。迷宮の入り口と出口にいるようなものだ。アルファーでありオメガである。
 彼は、人間の似姿としてしか人形はありえない というこの蟲惑的なテーゼを破棄しようとしているようだ。その証拠には彼のマリオネットの構造によせる執念は、神の人間に対するもののごとくである。彼の鍛冶場には槌、鏨、フイゴ、タール、それに未完の手足や、打ち捨てられた首などが雑然と散らかっており、洞窟のようなその仕事場は悪魔の工房もかくやと思われる。
 最初に創られた赤く錆びついたマリオネットの肢体は、製作年代不祥の遺物のようでありながら、糸を張り詰めるやわずかにそれを動かすだけで、ガチャガチャと鈍い金属音を吠え立てながら、肢体の隅々までが不気味に動く様は、さながら「青銅の魔人」かゴーレムのようだ。
 くり貫かれたようなうつろな眼は、人形が持っている見返す眼差しを自らの誕生の記憶にのみむけている。また、その肢体は、その構造的フォルムにも拘わらず、古代の霊の禍々しさと太陽神のごとき生命力を発散させ、鉄という暗き大地より生まれしマテリアルより変容せられたアントロポス(原人間)そのものだ。
 大地より生まれるために潜った炎を、その錆びた表面から、あるいは輝く表面からも連想させるなんという鉄のマチエール!彼の第ニ作・第三作のなべての光を照らし返す光輝くマリオネットは、アントロポスの旺盛な生命力と、その荒々しき始原の無辜性故に、神話の登場人物たる原初の身振り という秘密に満ちた沈黙の雄弁さを持って舞台を闊歩する。言葉以前の漆黒が、照り映える彼の全身から振りまかれる。
 第一回の目黒区民館における公演「PARADISE-1]は、彼のマリオネット劇への烈しい姿勢が朧げながらも形を取りはじめようとしたものだ。一体のマリオネットと一羽の蝶によって演じられた十数分の「誕生神話」は、あまりにも象徴的であったが故に見る人に不安を呼び起こさずにはおかない アダム以前のアダム あるいは 未来のアダム とでもいうべきものであった。

 第ニ回の麻布公会堂における「PARADISE-2]の公演において彼の姿勢はより明確な様式を持ち始めたようだ。それは肥田収による創世記・宇宙開闢の幻想譚である。
 生命誕生と地球誕生のおどろおどろしき暗夜を、鉄と真鍮が照り返す光のなかを、生命の波打ち際を呪の音を発しながら泳ぐ三匹?の怪魚。イメージのアナーキーの森で、宝石の目を光らせながら舞踏する一方のマリオネットの神聖劇。蜘蛛の巣を払うような仕草で「来るべき人形こそが物質を超えたオブジェだ。」と繰り返し囁くもう一方のマリオネット。不具であることが神であるかのように車輪の上で旋回し蠢く赤錆びた駄天使のマリオネット。「王国は光の中にある」とその薄き羽根を打ち震わせながら、マリオネットの周囲を神の使命を帯びたように飛び交う蝶。
 原初というすべてのイメージに先立つ目眩く秘密を現出せんという危険な創意も、下手をすると茶番になりかねない観念の展開も、鉄や真鍮などの金属が喚起する圧倒的なまでの太古のイメージによって払拭されていた。
 もし「始原」と「終末」、「誕生」と「死」が己の尾を咬むウロボロスのようにつながってあるなら、ヒダマリオネットの世界も現在の我々の世界の何処かに口をあけているであろう。今回の「PARADISE-3]においてもまた、神秘に満ちた太古を我々の前に開示されることを信じてうたがわない
(1978年「パラダイスー3」パンフより)

 

クリスマス・クリブ





ヒダオサム
 南江治郎先生によれば、その昔、ベネチアの教会の中で、糸吊り人形をつかった、「キリスト降誕の物語」や、「ヨセフとマリアの物語」等の、「クリスマス・クリブ」が盛んに演じられ、その人形をさして、「愛らしい小さなマリアの像」という意味の「マリオネット」という言葉が生まれ、全ヨーロッパに広がったと言う事です。
 うがってみれば、糸受けが、十字架の形をしているのも、そのせいかもれません。もちろん、これは、たての動きとよこのうごきをフォローするためという、機能からの説明もつきますが、日本のあやつりが、四角い板であったり、中国のものが、しゃもじ型であったり、インドでは直接指で持ったりする事をかんがえると、とても面白い事だとおもいます。
 糸を使った人形の動きというのは、とても幻想的で、自分で動かしているのに、その人形が、勝手に動いているような錯覚を覚える事があります。教会の宗教的神秘を演出するのに、糸吊り人形は、ぴったりだったのでしょう。
マリオネット幻想

 人形や、物が、ひとりでに動き出すという自動性の夢想は、ずっと人を魅了してきたテーマだろうと思います。又、その反対に、自分自身が、何物かに、動かされているのではないかといった心理も、時に人をとらえてはなさない、魅力のあるものです。そんな心のからくりが、糸には、かくれているのでしょう。
 今年は、そんな糸を、積木や、自動車やたぬきのおもちゃにつないでみました。よる、おもちゃ箱からぬけ出した、おもちゃたちの祝祭、手品のような小さなサーカスを、うす目をあけて、ごらんください。
(1982年クリスマス公演パンフレットより)


三鷹スタジオの事

大阿久和夫
 子供の頃、近くの風呂屋で深い浴槽と浅い浴槽の間にやっとこ人が潜り抜けるほどのあながあいていた。仲間と夕方に行っては潜り遊びをしていた。ふと気がつくと大きな鏡の前にゆでだこてきな体をさらしてボォーとたちつくしていた。そのうち大人がぞろぞろ入って来て鏡の中がごちゃごちゃな人になってしまった。僕は男湯と女湯の大きな鏡の中に入る事を思いついた。
 ある時、肥田さんの家でマリオネット野外ステージショーを見せてもらう事になった。その夜は月明かりと裸電球という明かりだった。夜だというのに朝露のねむりを静かに揺り起こすように蝶々がハタハタとあちらこちらと舞いくすぐるような小川のせせらぎの中でワクワクの太陽がコロコロと横にコロがる地平にマリオネットが置いてあった。全身鏡とレンズのあやしげな光を発光させてカチャと立った。夢から生まれた夢の中から、流れ出る夢をもう見る事なく動きはじめたマリオネットは、僕の心の内部に日光写真のように、淡くやきつき、そして二度と大人になることのない楽園に、無邪気に遊び回る子供達の幸福な世界に誘い込んでくれた。

 とうとうマリオネットは水鏡の上に舞い上がり、年をとらずしてよその世界にすべり込んでしまった。まるで銀のヘビのように、とぐろを巻いていた。





(1982年クリスマス公演パンフレットより)